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認知症と告げられて

父は57歳で認知症と診断されました。

生き方という視点から

 

共同性に偏した生き方、個別性に偏した生き方 生き方もこの二つの疾患をかかえている人は正反対であると私には思える。むろん、両者には認知症という共通点があり、一人ひとりの異なりも大きいのだが、ここでは典型例で考えてみよう。人は誰とも代替のきかない「私」を生きている。哲学者は独我論とけなすかもしれないが、この実感は私たち大半のものであろう。しかし、一方で私は「私たち」を生きてもいる。人は一人で生きることはできない、と言い替えていいのかもしれない。私は私たちの世界に溶け込んでゆく存在でもあるのだ。
前者のような生き方を個別性と呼び、後者のような生き方を共同性と名づけると、私たちはこの個別性と共同性とをうまく統合して生きているに違いない。ところが、アルッハイマI型認知症は共同性に偏した生き方を、脳血管性認知症は個別性に偏した生き方をしているようにみえる。

 

 


デイケアや入所ケアにあたっていると、室伏君士がいみじくも「馴染みの仲間」と名づけた現象に出会う。デイルームの一角で数人の女性が談笑している。何の屈託もなさそうな笑顔でうなずき合い、肩を叩き合うなどして仲むつまじい。一人が指さす方を皆が見て、話はさらに盛り上がっているようである。そっと後ろに立って何を話しているのかと聞き耳を立てる。

「今日は皆さ々 ようお集まりで」
「そうじゃそうじゃ、うちの息子はいい息子よ。家を新築してくれよってな」
「ほんに、今日は暖かいなあ」
「そういうことよのう」

誰か一人がなぜか声を出して笑いだす。「あんたは笑い過ぎじゃ」と言いながらみんなが笑っている。話の多くはすれ違い、時には偶然のように交叉しながら、倦むことなく続いている。


一度出会うと、あの何ともいえないふんわりした暖かい雰囲気は忘れられない。
このような会話は「偽会話」とよばれる。確かに論理的な言葉の交流ということからいえば、そうなる。しかし、そこには確かな心と心の交わりがある。食事したことを忘れて食事を要求し、スタッフに「さっき食べたでしよ」と言われて気色ばみ、一触即発の険悪な雰囲気になっていても、くだんの「馴染みの仲間」が「何ごちゃごちゃ言ってるの。こっちにおいでよ」と呼びに来ると、あっさり手をつないで去っていく。スタッフは「負けた」という表情になって見送っている。

この人たちはほぼ決まったメンバーで、その多くは認知症がやや進行したアルッハイマー型認知症の女性である。彼らは「私忘れ」とでも言おうか、明確に自己主張するということがあまりない。
共同性に偏した生き方といったのは、このような事態を指している。