告知に対する家族の考え

家族も、本人への告知については一般的に消極的で、「病名は絶対伝えないでください」と言われる方が圧倒的に多い。
 告知に積極的な家族は「車の運転が危なっかしいのでキーを取り上げたいのだけれど、そのためには病名をはっきり伝えてください」と言われるような場合である。あるいは「財産処理を早急に進めなければならない」「職場のミスが増え、会社側から何度も苦情を聞かされている。このままでは本人がかわいそうだから、退職を考えてもらいたいので」といった事情の方る。こくもある。
 ただ、このようなことを欧米の専門家にお話すると不思議そうな顔をされる。「病名は本人に属する情報だろう? 本人には伝えるけれど、本人の要請で家族や周囲には伝えないでくれ、と言われて家族への告知は行わないというなら分かるけど、その逆はおかしいのではないか」
と言うのである。正しい指摘だろう。
 しかし、欧米でも家族には大半告知が行われているが、本人への告知は約半数に堀廻きない、という報告もある。もっとも、わが国では、半数にはとうてい及ばないだろう。

 


 ただ、医師も家族も告知に嬬踏するのは、認知症を治療やケアの方法のない、絶望的な病とする誤解や偏見がまだ世にはびこっているからである。だから、問題は告知の是非というより、この誤解を解き、ケアの質をもっと高めて、「認知症をかかえても生き生きと暮らせる道は必ずある」(これは、かつて私が勤務していた老人保健施設桃源の郷の「理念」として文章化したものの冒頭にあったものである)という確信を社会が共有することにある。

 


 このような背景が告知以前に、診断を遅らせてもいる。だから、認知症の診断は初発と考えられる時期からかなり時間を経てなされているのが現実である。家族が変調に気づいていても、
家族も本人も専門医への受診をためらう。結局、身体的不調などを理由に連れてこられる。認知症の原因疾患の特定のためにも、以後のケアのためにも、血液検査や心電図などの身体的検索は欠かせないから、医師が心得て対応しさえすれば、鴎されたという思いで帰られることはまずない。しかし、告知はますます難しくなる。
 最近は「もの忘れ外来」という呼称の、敷居の低い外来が増えたから少し事態が改善した。
さらに、認知症がだれもがかかる病という認識も広がったから、以前に比べれば発症から初診までの期間はかなり短縮された。自ら「最近、もの忘れがひどくて」と訴えて来院される方も増えた。「認知症という告知を受けて、かえって落ち着いた」と言われる方も少なくない。それはむろん、医師の対応や以後の治療、ケアが適切になされれば、の話である。
 かかりつけ医からの紹介も増え、地域に必ずといっていいほどある在宅介護支援センターに家族が相談に行き、そこから紹介されて外来においでいただいた方も多い。すでに別の理由で介護保険を利用されている方が、担当のケアマネージャーに付き添われてこられることもある。

進まない認知症の告知